多様性を軸に『逃げるは恥だが役に立つ』が描いたコンプレックスからの解放

昨夜、TBSドラマ“逃げ恥”こと「逃げるは恥だが役に立つ」が無事、最終回を迎えました。

初回から随所に張り巡らせた伏線を、早くも遅くもない、絶妙なスピード感と距離感ですべて回収していく。なんてお見事!こんなドラマは本当に久しぶりです。

逃げ恥今夜最終回!『逃げるは恥だが役に立つ』で久々に連続ドラマにハマった理由

昨日記した通り、ベースはラブコメながらも、現在起こっている社会問題現実を“逃げ恥ワールド”らしく描き、“逃げ恥ワールド”らしいひとつの答えをみせた秀逸さ。

そこに存在したのは、すべての登場人物が「自ら、あるいは社会によって抱えさせられたコンプレックス=劣等感からの解放」「自ら、あるいは社会が縛っていた呪縛から解き放たれるやさしい風景でした。

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「人間にとってもっともたいせつなことはコミュニケーションを取ること。そして、それを諦めないこと」

人間にとってもっともたいせつなことはコミュニケーションを取ること。そして、それを諦めないこと

当たり前ながらも、むずかしい。とりわけ、日本のみならず世界的に殺伐とした世の中で、見失いがちな人は多いはず。

どれだけ相性が良かろうが、自分以外はすべて違う人間。たとえ血のつながりがある親子や兄弟であっても。

人はつい「わかってくれているだろう」「どうしてわかってくれないだろう」と、自分の想いばかりが先走り、いつのまにやら相手にそれを押し付けていることも。特に人と深く関わりたがらないタイプほど。

主人公のみくりちゃんは学生時代の元カレに「小賢しい」とフラれた過去があり、平匡さんは傷つくことを恐れるあまり人との関係を遮断してきた経歴の持ち主。

こうしたパーソナリティを主役にすえた原作者の海野つなみさんは、人間関係の機微を深く理解されてらっしゃると率直に感じました。だからこそ「コミュニケーション」を知り、変わっていくのだから。


「人生のコンセプト」人はわかりあえないからこそ、わかりあおうとすることがたいせつ

人はわかりあえないもの

一見、逆説的なスタンスと勘違いされがちなわたしのポリシーのひとつですが、本質的に意味はまったく同じで、「だからこそ、わかりあおうとすることがたいせつ」までセットです。

人は誰もが違います。違うことが良い悪いでもなく、ごくごく自然な真実。特に日本は「多数決文化」「人と同じことが望まれる」社会を醸成しがちですが、これこそすべての人間に生きづらさを与えています。

人間なんて違って当たり前。1から10までわかりあえなくて当然。違うからこそ素晴らしいし面白い。違うからこそ相乗効果で魅力を引き出しあえる。

お互いが違うからこそ相手の良さがわかるし、お互いが違うからこそ時には喧嘩をしたり揉めることもあるし、面倒くさかったりする。

それでも、お互いの意見や考えを惜しみなく伝えあい、お互いが歩み寄ってすりあわせること。イコール「お互いの心地よさ」を一緒に見つけていくこと。

ひとりよがりな押し付けや考え方では、どれだけ相性が良いとされる関係でも必ず破綻する。わかりあおうとする、シンプルで素直な勇気をもてるかどうか。人生はこの繰り返しで、人生はこうして続いていく。

このドラマは本質を見事に描ききっていました。しかも嫌な人間を誰ひとりとして登場させず。これを「幸せ」「やさしい」と呼ばずしてなんと呼ぼう。

逃げ恥”の秀逸さは、人間としての素直な幸せの在り方とリンクする、「人生のコンセプト」にこそありました。


「自分以外にまったく同じ人間なんていない」本質を描いたバスルームでの名シーン

合う合わないは誰にでもあります。どれだけ歩み寄ってもわかりあえない人もいる。それはそれとして、の大前提です。

その上で、歩み寄れる同士がパートナーになれる。違いがあるからこそ、喧嘩をしてお互い傷つくことになっても、思いやりあえて、いたわりあえる。

自分が知らない自分を発見してくれたり、悩んでいたことすら軽やかに解決してくれたり。お互いに影響しあい、お互いに変化しあう。そう、人間関係は「違う」からこそ面白いのです。

個性や生き方の違い」と「合わない」は異なります。そこを混同してしまいコミュニケーションを諦めてしまう人が多くなったことも社会問題のひとつでしょう。

まずはそんな自分に気づかせてくれた人をたいせつにすること。苦手だと思わず、素直に勇気を出して自分なりにトライしてみること。「自分以外にまったく同じ人間なんていない」現実と向き合いながら。

その本質を爽やかに描いたのが、最終話、自己嫌悪に苛まれバスルームの扉を閉め、心のシャッターを下ろしてしまったみくりちゃんと、ノックして語りかけ、すべてを受けとめた平匡さんの姿。

みくりちゃんのひたむきでやさしい言動によって変わった平匡さんが、今度は自分の存在でみくりちゃんを呪縛から救う、名シーンです。


コミュニケーションは、一方的でひとりよがりな押し付けではなく、お互いのベストを見つけること

コミュニケーションは、強引に扉を開けさせるのではなく、やさしくノックをして「今、いいですか?」がなによりもたいせつ。特に、傷ついて扉を閉ざしている相手に対してほど、なおさら。

あのバスルームでのワンシーンは、相手との関係性や立場を問わず、人間関係における重要な在り方を示してくれました。

自分とは違うからこそ、誰に対しても、「自分はこう思う。だからこうして」じゃない。「自分はこう思うんだけれど、あなたはどう?」を、お互いに繰り返すこと。

人をカテゴライズして評価する行為をしない」ことも大事です。評価好きで上から目線が癖づいた人間は、あらゆるすべてから拒絶されてしまうだけ。「自分がやられて嫌」なことも「相手がやられて嫌」なこともやっているから。

やってもらって当たり前」も、「感謝の気持ちがなくなる」あるいは「上辺っつらの言葉だけになる」も、すべてコミュニケーションとは程遠い。

自分はこれだけしてあげたんだから、同じように返してくれるはず」。コミュニケーション=キャッチボールを疎かにした一方的な押し付けは、自分の理想像じゃない相手を悪く感じ、責める。

喧嘩をしてしまうことがあっても、うまくいかなくてミスが発生しても、訂正するのは、お互いの性格や人間性ではなく、やり方や方法だけでいい。

相手を責めても、なにも解決しないし誰も幸せにならない。お互いにすりあわせながら、お互いのベストを見つけること。

もっとこうしたほうがいい」も実は危険です。「自分はこうしたほうがいいんじゃないかな、と感じているんだけれど、あなたはどう感じているのかな?」が抜けているから。

人付き合いは「指導」ではありません。たとえ指導者と教え子の関係性でも、一方的に押し付ける人間に人は誰もついてこないし、心を開くことはない。

無意味な特権階級意識や、カテゴライズで判断しがちな価値基準も、すべて卒業しない限り、本質的な部分で誰からも受け入れてもらえることはないでしょう。


なにが「普通」であるかは時代によって変化するからこそ、多様性に目を向けることが重要

誰もが「普通」であり、誰もが「普通ではない」。普通か普通じゃないか、誰が決められるんでしょう?「ひとりよがりな評価」を下し、決めつけてかかる存在こそ呪縛のひとつ。そんな呪縛からは逃れていいのでは。

そもそも「普通」ってなんでしょうか?

普通でないこと馬鹿にして阻害するのも違う。逆に、普通であること見下し自分は普通の人間とは違う特別な存在」と歪んだ特権階級ぶって不遜に振る舞うのも違う。

たとえ社会的立場がある著名人でも、どちらも成熟した大人にはなれない、幼稚じみたひとりよがりの考え方であり在り方。と同時に、実は誰よりも「コミュニケーションを疎かにしている」。

そもそも「普通」や「常識」、言葉を変えると「マジョリティ」とも称されるそれらは、時代とともに変化し、時代にあわせて変わってきました。

顔立ちもその時代によって「イケメン」「美人」の定義が異なるし、ゲイ=男色戦国時代を中心に当然とされる時代がありました。帰国子女がなにひとつ違和感なく普通とされる環境も存在します。

逃げ恥”が伝えたかったもっともたいせつなことは、先述の「人生のコンセプト」、つまり「人はそれぞれで違う」ことであり、「多様性を認めあい、やさしく受け入れあう」ことなのでは。

たいせつなことは、すべてシンプル。本質的に人間は生きやすくなり、やさしい世の中になる

人生を幸せに生きたいのであれば、押し付けや押し売りはもちろん、「自分がよければいい」から卒業しなくては、結果的にいつまで経っても誰からも受け入れてもらえず、拒絶されるだけです。

違いがあるからこそ面白い
誰もが普通であり、誰もが普通ではない
お互いに相手を理解したり、理解しようと心がけ、相手の領域=パーソナルスペースに土足で踏み込まない
人は自分の思い通りに考え、動いてくれる、ご都合のよろしい道具ではない
自分がやられて嫌なことはもちろん、相手がやられて嫌なことはやらない

たいせつなことは、すべてシンプル。シンプルであればあるほど、本質的に人間は生きやすくなるし、やさしい世の中になります。

やり方や在り方のまずさに気づけた人間は、どれだけ気づくのが遅くなっても、人生がより良く変わっていくはず。ひとりではなく、誰かと、周囲と、ともにやさしく生きるために。

そして、それが少しずつでも理解できるようになった人間は、自分にも人にもやさしくいられる。

たとえその時々のトラブルや心身のコンディションで、自分で自分が嫌になる状態に陥っても、自分と相手の中にはやさしさが育まれているから大丈夫。

誰もがみんなコンプレックス=劣等感を抱え、ゆるやかに解きほぐされた結果、誰もがみんな幸せに

みくりちゃんは、自身を「小賢しい女」だと思いこんでいたこと。平匡さんは、30代半ばまでプロの独身童貞だった現実。

百合ちゃんは、年齢差がある男性との恋愛を前に再び顔を出した、人生を縛ってきた臆病さ。風見さんは、ハイスペックイケメンであるがゆえの打算的、刹那的な恋愛を繰り返し、本気になれなかった切なさ。

沼田さんは、ゲイであることに加え、自分の容姿に自信がもてず好きな相手に素直になれない気持ち。百合ちゃんの部下の梅原くんも、セクシャル・マイノリティなことと、好きな人に会えないジレンマ。

同じく百合ちゃんの部下の堀内ちゃんは、帰国子女で母国でも英語圏でもなじめないトラウマ。バーのマスター山さんは、離婚や別れた奥さんへの後悔を常にひきずる寂しさ。

誰もがみんな、コンプレックス=劣等感を抱えていたけれど、すべてゆるやかに解きほぐされていき、誰もがみんな幸せになった。そんな最終回を鮮やかに描いた「チーム逃げ恥」に敬意を表します。

“逃げ恥”は、“逃げ恥”を愛するすべての人の心の中や現実の風景に、自然と溶け込むように生きている

出典:TBS

逃げ恥”こと「逃げるは恥だが役に立つ」。昨日、「逃げ恥ロスになってしまいそう!」と記しましたが、やっぱりわたしは性格的に「ロス」にはなりませんでした。

それどころか、今、とっても清々しい想いです。

もちろん「終わってしまって寂しいな」「もう観れないことが惜しい」とは感じています。でも、なにかを失う・損失=ロスではまったくない。

だって、これは現実の物語なのだから。“逃げ恥”は、“逃げ恥”を愛するすべての人の心の中や現実の風景に、自然と溶け込むように生きている。

そんな想いを届けてくれた「逃げるは恥だが役に立つ」。めずらしく初回から最終回まで欠かさず見逃すことなく完走できた自分を褒めてあげようかな(笑)。

さあ、これからみんなで、今度は自分自身の人生のさらなる幸せを自分なりに見つけていこう。ひとりよがりではなく、「人生のコンセプト」をたいせつにしながら。

リアルとドラマを爽やかにリンクさせてくれたことに、深い感謝を抱きつつ。

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