【愛されるエース】香川真司とマルコ・ロイスに共通する繊細な感性と、日本とドイツの親和性から成る両国の支え

香川真司とマルコ・ロイスは、よく似ている。

サッカー選手としてのプレイスタイルパーソナリティにおける性格などの側面からみたら、このふたりは「似ている」といわれてもそれほどピンとこない。

では、どこが似ているのか?

天才肌特有の繊細さ」という一点において、実に驚くほど「似ている」と思わされる。

そういえば、香川真司は日本のエースであり、マルコ・ロイスはボルシア・ドルトムントのエースだ。

繊細すぎるほどの感性を持ち合わせるこのふたりの「エース」に、ひとはなぜ自然と想いを馳せるのだろう。

香川真司とマルコ・ロイスが「似ている」理由。移ろいゆく表情を都度みせる人間性

試合中、その表情の変化を眺めているだけで、なんともいえず楽しませてくれる選手が存在する。

今日は調子がいいんだな」「今日はどことなくイライラしているみたいだ」「今日は楽しくてたまらないのがよくわかる

サッカー心理戦の要素も含まれ、ピッチ上ではポーカーフェイスを崩さずプレイする選手が、ふとした瞬間、心模様をみせる。恐らくサッカーファンであれば誰もがよく知ることだろう。

眺めている側の性格や好み、国民性など、さまざまな理由から必ずしもそうだとはいえない。ただ、移ろいゆく表情を都度みせる選手に対してほど、心をグッとつかまれるひとは多い。

香川真司とマルコ・ロイスは、まさにこの「移ろいゆく表情を都度みせる選手」だ。無意識に、惜しげもなく。



勝負の最中、少年のように素直な想いを表情に乗せる彼らに、誰もが感情を呼び起こされる

どちらも、良きにつけ悪しきにつけ「ついつい」といった様相で、本音がチラリ、チラリ、とうかがえる。

わかりやすいタイプとも呼べる両者は、対戦相手とのポーカーフェイスの駆け引きの最中、少年のように素直な想いを表情に乗せるのだ。

それがなんともたまらず人間らしい。チャーミング」といえばしっくりくるだろうか。

ギャップとも呼べる対極のそれを隠せないその姿に、ひと言でいえば、誰もが「応援したい」「応援しがいがある」という感情を呼び起こされる。

そう、人間は、いっさいの隙をみせないほど完璧だからといって、ひとを惹きつけるわけではない。むしろそれは、ひとを遠ざけ、いらぬ諍いを巻き起こす原因に発展することすらあるのだ。



ダメージを負い、立て直すために苦闘する姿に、心根と魂がリンクし、シンクロする

当人たちにとってあまり喜ばしくないことだが、彼らは不調なときほどより一層わかる。不調であることがより一層わかるのではない。心根の正直さが手に取るようによく理解できるのだ。

ご承知のとおり、香川真司とマルコ・ロイスは、どちらもメンタルやフィジカルにダメージを負いやすい選手である。ダメージを負うと立て直すのに時間を要するタイプで、そのたびに苦闘する姿と相対する。

そんな彼らに対し、周囲は我が事のように静かにじっと見守り、支える姿勢を崩さない。

これはなぜだろうか?

ダメージを負いやすいから?可哀想だという同情心から?応援しているチームのエースである以上そうするべきだから?

いずれもまったく違う。そんな無礼極まりない中途半端な気持ちではない。

少なくとも、わたしはそう実感している。

心根の正直さが手に取るようによく理解できるからだ。つまり、必死に苦闘する彼らの心根が、魂が、自然と見守る側の心根を、魂を、リンクさせ、シンクロさせる。

自分にも似た経験がある」「自分もあのとき苦しかった」「自分と今まさに同じ状況だ

もちろん、プロサッカー選手、あるいは元選手でない限り、彼らと同じ経験を負うことはない。ところが、「人生」を投影させるかの如く心を惹きつけられた瞬間、それはたちどころに自身の想いの記憶を呼び起こす。

負けるな」「がんばれ」「大丈夫だよ

状況を、物事を、根底からくつがえす声が、願いや祈りとなって舞い降りる。彼らの背中を、そっと、やさしく、力強く、押すように。



マルコ・ロイスが日本で人気が高い理由。復活を遂げた日本人の芯の強さによって共感を呼ぶ

日本における香川真司の人気は当然のことながら、ドイツでも爆発的な人気を誇ることは幾度となく記してきたことだ。母国日本以上にドイツにおける香川真司は、心根を正直に表す選手として愛されている。

ドイツにおけるマルコ・ロイスの人気も同様だ。そして、日本においても、マルコ・ロイスは人気が高い。これは決して「偶然ではない」と納得させられる。

親和性が高い国として知られる日本とドイツは、確固たる才能や技術はもとより、人間としての実直さの中に垣間みえるヤンチャさや正直さを内包する人物が好まれるのはご存知のことだろう。

とりわけ日本は、アクシデントから立ち上がろうと奮闘する人間に対し、他国が驚くほど想いを寄せ、バックアップする傾向が強い。

これには、歴史で彩られた国民性が関係する。日本は、過酷で理不尽な大災害による甚大な被害にあっても、必ず復活を遂げてきた国だ。戦後はもとより、近年の大震災など、数えきれないほど歴史が物語る。

復活を遂げないなど、ありえない。声高に喧伝しないことから理解されにくいとも称される日本人だが、内に秘めた芯の強さは他国がまったく足元にも及ばない。驚きと共に尊敬の念を寄せられるほどに。

こうした国民性をもつ日本人の中でマルコ・ロイスの人気が高いことは、「偶然ではない」ことがおわかりいただけるだろうか。「必ず復活を遂げる信念において、共感を呼び、我が事のように心をつかまれるからだ。



人生の万華鏡のように語りかけるその姿にシンクロできる人間ほど、彼らエースを愛せるはず

エース」とは、強ければいい、才能があればいい、上手であればいいわけではない。彼らがその身ひとつで、あらためてわたしたちに教えてくれる。

エース」とは、強く強く、ひとを共感させる存在である。

その姿は、ときとして怒りや憤り、悲しみや苛立ちを内包しながら、なんとか這い上がろうともがく。もがけばもがくほど、時にはうまくいかないこともあるだろう。それでも、答えを見出すためにあがく。

こんなに美しい姿をみせられて惹きつけられないのであれば、人間として生きるイミはない。ひとは、再び立ち上がろうともがくときにこそ、どんな瞬間よりも美しく人間らしい強さと弱さをみせるからだ。

人間として正直に生きる強さと弱さを愛せずして、自身の人生が充実しているとはいえない。

香川真司とマルコ・ロイスの存在は、人生の万華鏡のように語りかける。あるいは、リトマス試験紙とも表現できるかもしれない。

否応なしに問いかけられるそのとき、シンクロできる人間ほど、彼らエースを愛せるはずだ。

無垢な愛情を呼び起こせない人間に、愛を育めない人間に、エースの称号は与えられない

わたしが彼らを愛するのは、彼らが「エースらしいエース」だからだ。

いっさいの隙をみせないほど完璧を気取るロボットのようなエースを、わたしはエースだとはまったく思えない。

無垢な愛情を呼び起こせない人間に、エースを名乗る資格はない。エースとは、愛されなければいけない存在だ。つまり、愛を育めない人間に、エースの称号は与えられない。

「楽しい」「おもしろい」と感じるエースがいれば、サッカーファンの人生は最高に幸せ

香川真司とマルコ・ロイスは、よく似ている。

ひとつの答えがおわかりいただけただろうか。

そう、彼らは同じ「エース」だ。選ばれし者として、愛される存在である。

日本とボルシア・ドルトムントのエースが、どちらも「エースらしいエース」であることに、たとえようもない喜びと、ほくそ笑むような感情を抱きながら、わたしはこれからも静かに見守りつづけるだろう。

サッカーファンとしての幸せは、間違いなくシンプルなほうがいい。その姿が純粋に「楽しい」「おもしろい」と感じるエースがいれば、それだけでサッカーファンとしての人生は最高に幸せだ。

少なくとも、わたしはそう実感している。