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2016年3月11日。
東京の空は今にも泣き出しそうな曇り空でした。
再び、あれから1年。そして、発生から5年。
2015年3月11日|「“まだ4年”の意識が大事」東日本大震災から5年目に想う
「まだ5年」。感覚を研ぎ澄ませながら、あらためて心に誓います。一生忘れることがないように。
東北地方を中心に日本を襲った東日本大震災発生から5年が経った今日、想いを寄せながら感じること。
あの日に誓ったひとりとして。「東北は、日本は、絶対に負けない」
あの日を境に世界は一変し、ひとの無力さをまざまざと思い知らされると同時に、ひとのやさしさで彩られた力強い光景を目の当たりにしました。日本はもちろん、世界中で。
あたたかな想いの数々は、大きな傷を負った東北地方が、日本が、再び立ち上がり、走ることができるように、と、強く強く、祈っていました。誰もが等しく。
その内のひとりとして、「せめて自分にできることをやっていこう」と決め、地道につづけてきた義援金などの活動は、今も変わらずつづけています。あの日に誓ったひとりとして。
「東北は、日本は、絶対に負けない」
日本中の真っ当な想いが、強く強く、誓ったあの日。
「誰かのために、自分ができることを考え、行動に移す」
日本中の真っ当な人間が、強く強く、決めたあの日。
胸に反芻しなくてはいけないことは、確固たる現実。真の復興支援とは、現実に向きあうこと
「誰かのために自分ができることを選択する」「誰かのために自分が寄り添うことを決める」
富や名声や社会的地位など、上っ面の判断基準があっけなく崩れ落ちたあの日、驚くほど多くのひとの価値観がガラリと変わりました。「自分が、自分が、の人間は、必ず淘汰される」という現実とともに。
ひとの生き方や人生観を様変わりさせる甚大な被害は、確かに「ひと同士が団結し、支えあうこと」といった、誰もが見失いがちになっていた原点を思い出させ、以降、かけがえのないモノとして生きてきたことは事実。
されど、それだけで完結させることが許されるほど、現実は甘くありません。
悔しくて悔しくて、戻りたくても戻れない日常を憂い、気が狂いそうになるほどやりきれない毎日を過ごしているのは、容易に語る選択ができる人間ではなく、「語ることすらできず、もがき苦しんでいるひと」。
わたしたちが今一度、胸に反芻しなくてはいけないことは、確固たる現実です。
「薄ら寒い同情心など、なんの役にも立たない」
ましてや
「独りよがりな自己中の戯れ言や暴走など、現場を混乱させ、足を引っ張るだけの悪しき邪魔でしかない」
声もあげられず、声を押し殺しながら泣いているひとを、これ以上見殺しになんてできない。
「真の復興支援」とは、現実に向きあうこと。薄ら寒い同情心なんか、相手の尊厳を傷つけているだけの無用の長物であり、なにひとつもいらないと切り捨てられるべきモノ。これが、本物の現実です。
ひとの命を、ひとの尊厳を、これ以上疎かにするのであれば、東京オリンピックは無と化していい
今年も、政府主催の追悼式が行われました。東京都千代田区の国立劇場で。
「この追悼式を現地で行わない事実に、復興が進まない、進んでいても誰もが嘆き、苛立ちを隠せないほど歩みが遅い理由が、邪魔をしているモノの正体が、すべて隠れている」
ザラリとした感触とともに、苦笑いが沸き上がるほど。
1年前の今日、記した、わたしの意志はいっさい変わりません。
「復興支援を疎かにし、これ以上くだらない乱痴気騒ぎを巻き起こすことに貴重な財源を横流しつづけ、抗えない被害に見舞われたひとたちをさらに痛めつけるのであれば、東京オリンピックは開催しなくていい」
ひとの命を、ひとの尊厳を、これ以上疎かにするのであれば、スポーツの祭典は無と化していい。
スポーツを愛する人間にここまで冷ややかに思わせるほど、ミスジャッジを繰り返す政治家、各スポーツ協会には辟易どころじゃない。それは、現場の選手たちの真摯な「支援をつづける」想いすら消し去る行為。
あなた方は誰に支えられているか本当に理解しているんだろうか?
東京オリンピックを無理やり引っ張ってこなければ、東北の復興は進んでいる。なぜその事実をごまかす?都合が悪いからにほかならないでしょう。自分たちの落ち度と愚行さをごまかしたいに過ぎない。
血税含め、誰もが「被害を受けたひとたちをサポートするために」願いを込めた義援金は、傷ついたひとをサポートするどころか窮地に追い込む目的で使われるために出しているんじゃない。できないなら返しなさい。
あなた方は「震災をお祝いします」と、ゲスヅラ晒してぶちあげたどこぞの忌まわしい連中とまったくなにひとつ変わらない。
東北を、日本を、愚弄する、ひとの痛みに愚鈍な分際で己が痛みを負った際にはことさら無駄にわめき散らかす出来損ないは、どこの誰であろうが許さない。絶対に。
「フォア・ザ・チーム」日本という大きなチームが、今一度、チームスピリッツを思い起こすとき
現地の人間ではないからこそ、できることがある。他人事ではなく、誰もがお互いに支えあう存在として。ひとはひとりでは生きていけないからこそ。ひとりで生きているだなんて傲慢で浅はかな考えだからこそ。
最後に、チームスポーツの世界で繰り返される言葉と、そこに込められた真実を記すことで、2016年3月11日に寄せる想いに代えさせてください。
「フォア・ザ・チーム」
自分のために、ではなく、チームのために。
このブログを幾度となく見ているひとであればピンとくると思いますが、わたしがドイツ・ブンデスリーガのボルシア・ドルトムントというチームを愛する理由が、この精神を重要視していること。
そしてそれは、ボルシア・ドルトムントのみならず、優秀であればあるほど、世界中のサッカーチームが、もっというなれば、世界中のスポーツチームが、なによりもたいせつにしているスピリッツです。
チームとは決して、群れることではありません。
「ひとを素直に愛することができる、独りよがりと真逆の自立した人間同士が、お互いがより良くあるために支えあい、尽力し、窮地のときこそ我が身を挺してでも守りあうこと」
そこにあるのは、愛と調和。
本来の日本は、愛と調和の精神にあふれた国。日本という大きなチームが、今一度、チームスピリッツを思い起こすときです。
「東北は、日本は、絶対に負けない」
日本中の真っ当な想いが、強く強く、誓ったあの日とまったく等しく。
変わらず強く願う。過去や未来ではなく、毎日の「今日」という日が最良の日でありますように
2016年3月11日。
一年前と変わらずに、現地に寄り添うことを忘れないよう、強く強く、願っています。
現地のみなさんにとって、過去や未来ではなく、毎日の「今日」という日が、どうか最良の日でありますように。