2014バロンドール最終候補ノイアー・ロナウド・メッシの姿に想うアスリートへのリスペクトとサポーターの在り方

2015バロンドール候補者23名が発表されたことを受け、昨日のエントリーはマヌちゃんことマヌエル・ノイアーにバロンドールを!という話題。もともと候補者が発表された時点で取り上げるつもりでした。

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が、前日行われたチャンピオンズリーグにてバイエルン・ミュンヘンがアーセナルに敗れた、しかもマヌちゃんのミスがあったことから「ノイアーファンとしてかばうため?」「アーセナル戦知らないで書いてる?」と。

いやいや、ミスがあったとしてもいっさい関係ありません。で、試合結果ももちろん知っていました。わたしにいわせたら「たかだかそんなことくらいで」です。もちろん、本当に心から良いイミで。

マヌエル・ノイアーを見くびってもらっちゃ困る(笑)。本日は「アスリートへのリスペクト」という話題を。

「絶対」のキーワードは「プロセス」であって、決して約束された「結果」ではない

長いシーズン、あらゆることが起きる」とはよくいったもので、「絶対」などというキーワードが存在しないのがフットボールであり、人生ともいえます。

絶対得点する」「絶対失点しない

オフェンス陣とディフェンス陣のせめぎあい。

技術を磨き、戦術を実践し、最後にものをいう絶対なんとかするメンタルの強さが勝負を決するといわれていますが、「絶対」は選手本人が強い誓いを立てて闘うプロセスであり、決して約束された結果ではありません。

だからこそ、フットボールは奥が深くおもしろいし、すべての姿に心惹かれるのだと感じています。


都合のいい完璧なロボットを求める人間は、フットボールを観る資格がない

あえていうのであれば、都合のいい完璧なロボットを求める人間は、フットボールを観る資格がない。

それはイコール、ちょっと厳しい表現をしてしまうと、ひとと触れ合いながらの人生を生きる資格を本来持ち合わせていない。

自分にばかり甘く、あるいは自己保身、虚栄心からくる自分に誤った厳しさを課するが故に、関わる人間に対して片っ端からミスジャッジしていく、ひとりよがりな人生観でしかありません。

人間は、完璧じゃないからこそ、美しい。美しくありたいと、時としてもがいたりあがいたり悔やんだりする姿も含めて、なによりもこの世で尊く、凛として美しい。

それが真実ではないかな、と。人間、すなわちアスリートも。


2014バロンドーラー、クリスティアーノ・ロナウドが見せた乱入者への対応

奇しくも、昨シーズンのバロンドーラークリスティアーノ・ロナウド擁するレアル・マドリードも、チャンピオンズリーグにてPSGとの一戦が「痛恨のドロー」などという見出しが踊る結果に。

痛恨の、というより、両チームとも良いチームだしそういう結果になることだって当然ある」と、煽り体質メディアにやや苦々しい想いを抱いていたところ、試合中のエピソードを知り驚くとともに心底感心しました。

コチラです。

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いや、この前のエントリーで「バロンドール投票権獲得のためにFIFAに乗り込んで話つけよう!」なんて笑いながら冗談飛ばしていたわたしですが、冗談いっさい抜きでこういうことやるヤツいるんだな(白目)。

しかも、背骨をガシッとわしづかみしてて怖いんですけど……(震え声)。

なんというパワー系のゴッツイにーちゃん!185センチあるクリさんより背が高い?このにーちゃんからクリさん守れるのは、ぬりかべマヌちゃんしかいないんじゃないの(白目)とマジメに考えてしまったほど(笑)。

特に、欧州や南米は乱入が多いこともあって慣れているとはいえ、選手本人だって怖くないわけないだろうに。しかも、試合中はアドレナリンが出ている状態。ましてなんとしてでも得点がほしい終盤。

にも関わらず、こういうシーンでも平静を保って対処するクリスティアーノ・ロナウド、さすがの一言。「あいかわらず対応が素晴らしい」と感服させられました。


「心技体」が整ったフットボーラーたちの心を揺さぶる姿勢にリスペクトの感情が沸きあがる

 なお、C・ロナウドを“ターゲット”にした乱入者は多い。過去には2013年8月8日にマイアミで行われたギネス杯決勝戦のR・マドリー対チェルシーの一戦で、C・ロナウドと抱き合うために、20歳の学生がピッチへ入る“事件”も発生している。

引用:レアルvsパリSGの終了間際に乱入者、C・ロナウドに抱きつく(ゲキサカ)

記事中にあったこのエピソード。実は後日談があります。コチラです。

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いやもう、そこまでするか?!ため息が漏れるほど完璧。

いくら自分に好意をもっているファンとはいえ、自分がここまでされたとしたら果たして同じ対応ができるだろうか?

今一度、そう考えてみませんか?

このレベルの選手たちは、つねにこうした一方的感情のほとばしりに晒されながらも、自分の立場を考えながらひとつひとつ向き合っていく姿が見られます。特にフットボール界はレベルが上がれば上がるほど、ある種、崇高さを増していく面があり。

幾度となく記してきたことですが、わたしはこうした姿勢も含めてフットボーラーをリスペクトしています。それは、対人間への慈愛という名の感情。自然とリスペクトさせてくれるって、つまりこういうことだと思う。

そしてそれは、誰に頼まれたものでもなく、ただただ「才能、技術だけじゃなく人間味まであってうれしいな」と思わされた自然な結果。日本には「心技体」という考えが根強くありますが、まさにそれ。

心技体整っているからこそ、心が揺さぶられる。


ちょっとやそっとのことで平気で手のひら返して悪く言う価値観がない分、理解できない騒ぎが存在する

こうしたエピソードはいずれの選手にもあり、そのたびにほっこりしたり、涙したり、うれしくてニヤニヤしたり(笑)。

で、ここまで思わされる選手たちに対して、ちょっとやそっとのこと(成績不振のみならず、やっちまった!という騒ぎも・笑)で平気で手のひら返して悪く言ったり思ったりする人間に育て上げられていないんでね、少なくともわたしは。

そういうイミで、わたしはまったく育ちが悪くありません。

たとえば、2014バロンドール最終候補だった3人、マヌエル・ノイアー、クリスティアーノ・ロナウド、そしてリオネル・メッシ。

今、マヌちゃんアーセナル戦のミスくらいとはいえ、クリさんノーゴールを理由にやたらとうるさい連中がわめき、レオさまにいたっては長期離脱中。いわゆる「絶好調!」とはちょっと違う状態だといえるのかもしれません。

でも、だからそれがなんだっていうんだろう。

ノイアーからクリーンシートがなくなっても、ロナウドがノーゴールで引退しても、メッシがケガ続きになっても、彼らの価値は変わらない

昔から変わらないわたしの考えを正直に記しておきます。

この先、

たとえマヌエル・ノイアーからクリーンシート(無失点試合)がなくなり失点ばかりになったとしても

たとえクリスティアーノ・ロナウドが引退するまでノーゴールだったとしても

たとえリオネル・メッシがケガを負い続けるサッカー人生になったとしても

わたしの中で彼らの価値はいっさい色褪せることがなく、まったく変わりません。一瞬たりとも。

そしてそれは、すべての選手に対して等しくいえます。

自分のサッカー人生に誇りをもちながら、自分なりに全力で闘っているその姿は、それだけで価値があり、その価値は誰になにを言われようが変わりません。

異論はいっさい認めない。

くだらないケンカなんか買ってやるのもバカバカしいけれど「そんなのおかしい!」とエセフェミニスト団体みたいに汚いツバ飛ばしながらクレームつけるしか能がないくせにわめき散らかす人間がいるのなら、そのケンカはわたしが買います。

言っとくけど、わたし絶対に負けないからね?この手のケンカで負けることなんてありえない。

理由?あえて言わせてもらおう。あなたとはなにからなにまで人間性が違うんだよ(笑)。

人間が一番良い結果を出す「フロー」に達するために、選手たちをサポートする側はどうしたらいいんだろう?

人間が一番良い結果を出すための状態を「フロー状態」と呼ぶことは、それなりに社会で生きてきたひとであれば誰もが知っていること。

では、心理学でいうところの「フローに達するために、サポート側はどうしたら一番ベストなのか?真剣に考えたこと、ありますか?

言葉がアレで申し訳ないとは思いつつも

自分ってこんなにあなたを想っちゃってるの!あなたが苦しい姿はオレあたしも苦しい!(解読:だからオレ(あたし)のためにも結果出してよ!オレ(あたし)が悲しくなりたくないの!)」

もっとこうしたらいいのに、なんでしないの?この場合こういうポジショニングでこういうアクションでしょ?(解読:オレ(あたし)ってサッカーわかっちゃってる!早く褒めてよ!注目集めたいんだよね自分はやってないけど)」

これ、「応援している自分ってカッコイイ!けなげ!(ドヤア)」だと思いません?自分に酔っ払ってるだけ。必要以上に騒いで、相手に自分の感情を一方的に押しつけたりジャッジメントする必要って、一体どこにあります?

主軸はあなたじゃない。選手だ。

選手とともに「闘う」とは、凛としたやさしい愛情と、自立心があってこそ叶えられること

たとえ身近な存在じゃなくても、選手とともに闘う」とは、凛としたやさしい愛情と、自立心があってこそ。

本物のサポーターでいたいと思いませんか?選手がフローに達するための一助となる存在。リスペクトがあり、自分の人生を自分の足で立って生きていれば、きっと今はそうなれなくてもいつかはなれるはず。

もちろん、わたしだって至らないところだらけ。だけど、昔からブレない心根があります。

リスペクトを抱いた相手を簡単に裏切らない
卑怯な生き方をしない
自分がやられてイヤなことをひとにやらない

アスリートへのリスペクトや感情、スタンスも、基本的にはまったく同じです。シンプルイズベスト。

熱狂的サポーターではなく「冷たいー!(笑)」と冗談めかしてよくツッコまれるけれど、「ちょっとやそっとじゃブレない信念の強さならきっと誰にも負けない。わたしにいわせたら、簡単にブレるほうのがめんどくさい(笑)。

フットボーラーは楽しんで応援してなんぼ。超人的な技を披露してくれる彼らは、それでも機械じゃない、同じ人間。その当たり前の真実に気づくことこそ、彼らの真の姿に触れる第一歩じゃないかな、と。

今まで見えなかったモノが見える瞬間。リスペクトを欠いたら一生出会えない瞬間だと実感しています。