ボルシア・ドルトムント2015年最終戦を記さない理由と、ユルゲン・クロップの変わらない凄みと清々しさとやさしさ

27日に更新した澤穂希選手引退のエントリーは、自然と言葉がこぼれて紡ぎだされたもの。

もうひとつ、FIFAクラブワールドカップ2015にて優勝を果たしたFCバルセロナに関しては、忙しい時期を過ぎたら書きつづろうと心に決めていて、すでにドラフトができあがっているもの。

では、なぜ年内最終戦を終えたボルシア・ドルトムントを、今日現在まで、やけに広範囲に「なぜ?」と疑問を投げかけられるほど、まったく記してこなかったのか?

答え「言葉がいっさい出てこないから

2015年最後の試合、ボルシア・ドルトムントの負け方は、謙虚さや貪欲さを見失った結果

すでに何度か記してきたとおり、応援しているチームだろうが、引いて観ているチームだろうが、勝敗は二の次。負けたからといって、それに対してどうこう感じることはいっさいありません。

それが全力の結果であるならば、たとえこの世のすべてが批判しつづけ敵にまわっても、自分の身を呈してでも守りつづける。それがサポート側であるわたしの信念であり、生き方です。

そう。相手を、勝負を、ファンを、舐めたことによる、あえていうのであれば「謙虚さや貪欲さを見失った結果でなければ。

2015年最後の試合、ボルシア・ドルトムントの負け方は、相手を、勝負を、ファンを、舐めた謙虚さや貪欲さを見失った結果」という指摘が相次いでいること、残念ながらわたしも同意せざるを得ません。

あの瞬間、なにかが自分の中で、ブチンと、大きく音を立てて切れてしまいました。

自分はなにをやっているんだろう?なんのために貴重な時間を使っているんだろう?」とまで、まざまざと思い知らされるほどに。



サッカー選手自身がくだらないゲームに溺れて世の中を引っ掻き回すことも少なからずある

あのたった一戦だけで、なぜ?!」と驚かれます。あまり書きたくなかったことですが、いっさい表に出してこなかった他愛のない、だけど自分の生活圏内を荒らそうと画策する頭のおかしい馬鹿が沸く裏話を。

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当の本人がまったく理解ができない、当の本人の許可もなく濃霧注意報発令エリアの真っ只中に放り込まれるかの経験が、わたしの人生にはある時期からイヤというほど繰り返し起こります。

こんなことを記すことすらめんどくさい「めんどくさがり屋」が功を奏しているのか、逆に「めんどくさいから流してなんとかしてしまうタフな性格」がこの世の大迷惑な存在である調子乗りに繰り返させるのか。

どちらかは不明ながら発生するのは、殴るじゃ済まない輩がくだらないゲームに勝手に巻き込んでいるらしいこと。だからこそ都度「巻き込まれる意思はありません」のキツめの意思表示を繰り返してきたわけで。

と同時に、イヤというほど見えてくるモノも。それは「サッカー選手自身が、くだらないゲームに溺れて、世の中を引っ掻き回すことも少なからずある」という真実。



いつも胸にあるのはイビチャ・オシムの言葉「戦争を引き起こすのは、いつの時代も宗教だ」

麻痺している人間=いつしか愚かな道をたどってしまった教祖と信者。現実に起こる忌まわしい戦争や内紛、テロ行為に対してだけじゃなく、論ずるに値しない、だけど悪影響極まりないゲームに対しても胸に浮かぶことはひとつです。

それが、イビチャ・オシムの言葉。

戦争を引き起こすのは、いつの時代も宗教だ

あるときは戦争ゲーム、あるときは裁判官ゲーム、あるときは恋愛ゲーム。

あるときは敵と味方にわかれて争い、あるときは評価者気取りで人様の上げ下げを決め、あるときは誰かと誰かが付き合ったり結婚したりライバル同士で誰かを奪い合ったフリをして。

すっげーーーーどうでもいい(真顔)。わたしにとって「現実を生きていない乱痴気騒ぎなどすべてどうでもいい。馬鹿馬鹿しい以外の何者でもない」でソッコー終了完全終了。

やりたいひとだけでやってればいいじゃない。無関心や巻き込まれたくないひとたちをいっさい巻き込まずに」と繰り返してきている、にも関わらず。

それを世の中のスタンダードだと必死に画策する頭のおかしい非常識人間が、思った以上に広範囲で沸く平和ボケの祭典。たかが妄想ゲームの結果を、現実社会に持ち込み、都度態度を豹変させる気狂いども。



ボルシア・ドルトムントのやさしい輪が育まれつづける一方で起こる歪んだ信者の馬鹿騒ぎ

ボルシア・ドルトムントを記してきたことで、同じように応援しているひとの輪が広がり、思った以上に暖かで柔らかなやさしい仲良しのつながりが育まれつづけ、幸せな想いに包まれる一方で。

これは、内田篤人選手シャルケに関しても、まったく同じことがいえるのだけれど。

頭大丈夫?現実生きてる?本当にまともに仕事や勉強したことある?あなた、選手本人とどういう関係で、どういう権限があって脅しまがいの暴言吐きつづけられるの?人様を軽んじて調子こけるの?やってること冷静に理解してる?

淡々と、だけど驚かれるほど冷徹に切り返さざるを得ないファンもどき、いや、本人の評判や評価すらガタ落ちさせる歪んだ信者の暴走までことごとく沸きあがることに。



同じ経験まで負った上で同じ質とレベルの人間性を磨けるなら大迷惑な落ちぶれ方はしない決定的な差

とはいえ、これは想定内。以前から「ファンを名乗ってるだけの、思い込み激しく依存度数高いキチ◯イってどうしようもないな(呆)」という輩に勝手に当たり散らされることが少なくないため。

わたしのこと、各選手の家族や親友、関係者だと勘違いしてませんかね?(笑)

そのくせ「あんたなんか関係ないくせに!」ってさ、わかってるならいちいち八つ当たりするな。同じクオリティが書けもしない、同じ意志の強さが持てもしないくせに。

というより、わたしが本当に関係者であっても、やらかしていることは頭のネジが何本か飛んでいるどころか、人格破綻者として断罪されても文句いえないよ。頭悪くて理解できないだろうけれど(笑)。

関係者呼ばわりして当たり散らさないように。関係ないくせに!」の捨てゼリフはわかったから、無駄な嘲笑して溜飲さげた思い込みをいっさいやめるように。

人間としてのランクが違うんだから。頭も性格も品もなにもかも最底辺なあなた方とは、人間としての生き様もレベルもなにもかも違うんだよ。軽んじる相手間違ってるよ、痴れ者が。

悔しかったら、今までのわたしの人生とまったく同じ経験すべて負った上で、同じ質とレベルの人間性を磨いてから、その上で初めてほざきなさい。

やれるもんならやってみたらいい。頭のおかしい大迷惑な狂い方に簡単に落ちぶれる妄想連中じゃ1時間ももたないから。ソッコー死ぬのがオチ。なにひとついっさいできもないくせに。

そもそも、今までのわたしの人生とまったく同じイミわからん経験まですべて負った上で、それでも同じ質とレベルの人間性を磨けたとしたら、大迷惑な大迷走に落ちぶれることなんて一生ない。

知名度の有無じゃない。サッカー選手含めて、社会的ステイタスや知名度があるからなにやらかしても許されるごまかせるなんて傲慢さに溺れている人間も同罪。無駄な影響力がある分、余計に痴れ者。

自身の影響力や立場に溺れた煽動者=教祖がやらかす忌々しい現実が世の中をおかしくする

Twitterで何度か記してきた「いきなり暴言や脅迫まがい、あるいは調子乗りで軽んじる言葉を見ず知らずの人間にすれ違い時などにほざかれた際は、その証拠を全部抑えているからその覚悟でケンカ売りなさい」。

これを理解できていない人間が多いんだな、と。そのくせ、証拠が抑えられていることがわかった瞬間、顔色変えて謝るやら取り乱すやら。自分の人生台無しにする覚悟もできていないなら法に触れるギリギリするな(笑)。

ただ、それでもやめない理由は、煽動者=教祖、あるいは影響力をもつ人物こそが、調子乗りで反省知らずで同じことをダラダラ繰り返しているからだろうな、という忌々しい現実も。

ボルシア・ドルトムントは頭のおかしい馬鹿信者まで飼いならしている?と訝しげに感じた瞬間

なにもそれが、ボルシア・ドルトムントとイコールだなんていうつもりはないし、そこまでは思っていません。

ただ、ここしばらくのわたしは、ボルシア・ドルトムント所属各選手のファン(もどき)を名乗る頭のおかしい馬鹿にやらかされすぎたことも事実。

「ドルトムントが勝てないのはオマエのせい!」
(わたしがボルシア・ドルトムント応援しだしてから不調なんて昨シーズンくらいなのになにほざいてんだキチ◯イ)

「あたしの◯◯◯を奪わないで!」
(選手はわたしのモノじゃないし奪った覚えもないしあなたのモノでもないのになにほざいてんだキチ◯イ)

「◯◯◯はあなたを捨ててあたしのモノになったの!」
(選手のモノになった事実も捨てられた事実もあなたのモノになった事実もないのになにほざいてんだキチ◯イ)

「あなたなんてドルトムントのゴミ!」
(ファンをゴミ呼ばわりするチームならソッコーファンやめるしあなたにゴミ呼ばわりされる筋合いもないのになにほざいてんだキチ◯イ)

真っ当な人間が聞けば聞くほど、誰もが理解できなさすぎて片っ端から吐き気やじんましんを起こしたほど(これ本当に。わたしが焦ったほど・笑)馬鹿げた異常な大騒ぎ。

お得意の「めんどくさいから流してなんとかしてしまうタフな性格」の許容を超えてしまうほどに。

自分でいうのはイヤだけれど、あえていわせてほしい。よっぽどじゃなければ超えないと自他ともに認めるこのわたしの許容を超えるという事実で、どれほどの事態が起こっていたか少しでも想像してもらえたら。

だからといって、当然のことながらボルシア・ドルトムントがそれらから守ってくれるわけでも味方してくれるわけでもない。いわゆる「後ろ盾として守ってもらえない」のに理不尽な攻撃を受ける意味不明さ。

わたしは一体、なんのためにブログを書いているんだっけ?」と、ふと疑問に。異常な大騒ぎ起こす馬鹿の思惑に陥るのはイヤとはいえ、なんのために応援するのか見えなくなりかけたりも。

自分が知らない間に「ボルシア・ドルトムントと結婚」していたらしいこの現実は一体

忙しい」という言葉を使う、自分の状態を話すのが好きじゃないため避けてきているけれど、説明するために事実を述べると、年末進行で仕事は多忙どころじゃないほど多忙。

正直、純粋なサッカー観戦の時間を捻出することすら、多忙プラス疲労困憊でむずかしかったくらい。いつも以上に頭おかしい馬鹿騒ぎに巻き込まれたくないし集中したいのに。

周囲で巻き起こされる異常な馬鹿騒ぎを知って「いつもお世話になってる姉ちゃんを助けるために!」と、若い子中心にすっ飛んできてくれるのはいいけれど、悪質なのとは大ゲンカになってしまい落ち着かせざるを得なかったり。

数えきれないほどの後輩たちをオンオフ問わず僭越ながら育て上げてきた身としては、より一層事態が混乱するケースも中にはありつつ「可愛い我が子が自分のためにしてくれたこと」とうれしくも大変だったりも。

子育てママたちに「同じママ友と話するより、ママの気持ちわかってくれて支えてくれる感がすごい」などといわれるのも、何百人と「子育て」してきたからかな、と。出産経験もないのに(白目)。

そんな彼女たちが、ボルシア・ドルトムント年内最終戦を経て、わたしにポツリとつぶやいた言葉。

子育てに理解がない旦那に対するストレスや切なさとまったく同じ。子育ての苦労を理解せず、子どもにいい顔して都合いいときだけ遊び相手して良いパパぶって、仕事ばかりで夜中の授乳にも起きない旦那よ

おう。わたし、自分が知らない間に「ボルシア・ドルトムントと結婚」していたらしいぞ、どの選手がわたしの旦那筆頭格なんだ?(笑)

2015年ボルシア・ドルトムント最終戦での姿がトリガーとなり、なにかが切れてしまった

こんな冗談でも言ってなきゃやってらんねえ」が本音。妄想癖と超無縁の超リアリストの冗談だからこそ、どんな状況か想像してほしい。理解不能の大騒ぎにまとわりつかれる無情さ。

応援ありがとう!」「ファンのおかげ!」の言葉を目にして、「ウソばっかり。表向き取りつくろって、本当はファンなんかどうでもいいくせに。馬鹿にしてるくせに」と、知らず知らずにこぼれた瞬間。

ああ、もうダメだ。「許容オーバーの大騒ぎを誰も止めてくれない、誰も守ってくれない」という、ひとのせいにして逃げるしか能がない馬鹿が起こす理不尽さで切なさが飛ばせない。もうイヤだ。と。

疲労困憊で観戦したあの日、中途半端さ満載で最後までボールを追わず、試合終了後の言い訳インタビューなどを耳にし、「なぜこのチームは、相手を、勝負を舐めたんだろう」と、なにかが切れてしまった。

ユルゲン・クロップの変わらない凄みと清々しさとやさしさに、人生における強い共感を覚える

曰く「実家に帰らせていただきます、が、今は一番やるべきことじゃないかな。せめて、馬鹿どもを追い出す=ほとぼりが冷める、まで」。

うまいこというなあ。「実家に帰らせていただきます」は言い得て妙だな、と。でも、そんな感じです。

来年からは、同じ試合内容を目にした際は、同時刻に行われていることが少なくないリヴァプール戦にチャンネルを変えよう、と。プレミアリーグが観れる体制が整うし。

もし、その回数が増えたときは、わたしの中でひとつの答えが出るのかもしれません。

ボルシア・ドルトムントのサッカーが好きだったわけではなく、ユルゲン・クロップのサッカーが好きだったんだ」という答えが。

手を抜かない、慢心しない、相手と勝負を舐めない、諦めない。ユルゲン・クロップの印象は、いまだにまったく変わりません。最後まで全力で走ることの尊さが、ユルゲン・クロップのサッカーにはいつも息吹いている。

あえて言葉で表すとしたら、人間としてのモノが圧倒的に違うんだな、と。

世界レベルの試合が観たいわけではなく、懸命に闘う試合が観たい。戦術など経験者じゃない分、わからないこともあるからこそ、純粋に「楽しいな」「一生懸命だな」に反応するのは自然なこと。

再び記す気持ちになるのはいつかわからないそのときまで。さよなら、ボルシア・ドルトムント

現在、ブンデスリーガウィンターブレイク。キャンプがはじまったとき、またはブンデスリーガが再開されたとき、あるいはしばらく経ってから、もしくはいきなり明日かもしれない。

再びボルシア・ドルトムントを記す気持ちになるのはいつかわからない。そのときがいつ訪れるかわからないけれど。そのときまで。

さよなら、ボルシア・ドルトムント。